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大公一家を救った命のビザ

日本人で命のビザで思い浮かべるのは日本のシンドラーと呼ばれる杉原千畝リトアニア共和国日本領事館領事代理ですが、実は、杉原領事を上回るユダヤ人1万人以上を救ったポルトガルのシンドラーと呼ばれる人物がいました。彼の名前は、アリスティデス・デ・ソウザ・メンデスで、1938年8月以来フランス・ボルドーのポルトガル総領事を務めていました。
ナチス・ドイツ軍のルクセンブルク占領前に脱出した当時のシャルロット大公一家、政府関係者を含むルクセンブルクからの難民は、ドイツ軍の西方電撃戦によるでフランス占領間近の危機に瀕して、フランス西南部のボルドーにたどり着いていました。
メンデスは、1940年6月16日から23日の間、本国からの命令に逆らって避難民に対してポルトガル通過ビザを無料で発行していました。大公一家を含むルクセンブルクからの難民もユダヤ人らと共に、メンデスの発行した命のビザで、無事にポルトガルに逃げることができました。しかし、当時のポルトガルは、公式には中立、非公式にはナチス・シンパの軍事独裁政権で、大公一家や政府関係者は、結局、ポルトガルには長く滞在できず英国に亡命しています。メンデスは、政府の方針に反してビザを独断で、杉原領事同様に発行したため、懲罰委員会にかけられ、命令違反で懲戒免職になりました。15人の子供を含む家族は困窮しただけでなく、非国民一家として子供は大学にも行けず、就職もままならなくなり、米国への亡命を余儀なくされました。メンデスは、家族からも離れて汚名を背負ったまま寂しく失意のうちに1954年に死去しています。死後の1966年、イスラエルより「諸国民の中の正義の人」の称号が授与され、独裁政権崩壊後の1984年、本国でも名誉が回復され、自由勲章を授けられました。杉原領事と似たような経過をたどっていますが、独裁政権下であったため、より過酷な晩年を過ごしています。
ルクセンブルクが多くのポルトガル移民を受け入れ始めたのは、メンデスによって救われたことの恩返しの意味もあるのかもしれません。
メンデスのことを知ったのは、2020年2月22日まで国立公文書館で開催されている展覧会で、当館の展覧会としては珍しく仏語とともに英語の解説もありますので、日本人にもわかりやすいです。メンデスの生涯だけでなく、ルクセンブルクとポルトガルの国交開始以来の関係、ポルトガル移民者についても展示されています。今年は、偶然にも6月にリトアニアのカウナスにある杉原記念館を初めて訪問しただけに、両者の生涯がよく対比できました。