新型コロナ感染で昨年3月にロックダウンされて以来、外国旅行がほとんどできなくなったので、昔に購入して読んでいない本や雑誌を読んでいます。たまたま、現在は廃刊になった歴史読本2010年11月号を読んでいたら、「幕末外交談」の記載を引用した記事の中に、ルクセンブルクの記載があるのに気が付きました。「海国ニッポンの明治維新18横浜鎖港談判使節団」の連載記事で、田辺太一著の「幕末外交談」から「プロシア、デンマークの戦がようやく終わりを告げて、その善後策のために、双方の国からそれぞれ要求するところがあるのみならず、プロシア兵が中立地であるルクセンブルクに闖入したので、」と記載されていました。早速、原本を検索したら、国立国会図書館デジタルコレクションで「幕末外交談」を見つけて、読むことができました。287コマの中から、旧字体での該当か所を探すのは、原本コピー映像なので、時間がかかりましたが、下記写真のように確かに漢字のルクセンブルク名である「盧霖堡」が記載されていました。現在の漢字表記では、中間の漢字「霖」ではなく、「森」が使われて、「盧森堡」と表記されています。
開港した幕府が、朝廷の攘夷意向を受けて、開港をやめる方針で全ての開港地を閉鎖する予定でしたが、江戸に近い横浜に絞って、外国と交渉するために、フランスに幕府使節団を派遣し、ナポレオン3世との会談前に、仏政府がプロシアとの関係で多忙を極めている中での説明で、プロシアのルクセンブルク占領が触れられていました。ご存知かもしれませんが、これはビスマルク率いるプロシアのフランスに対する挑発の一環で、その後、挑発に乗ったフランスは普仏戦争で敗北し、ナポレオン3世は捕虜になり退位しています。
「幕末外交談」は、幕末に外国奉行の役人であった田辺太一が明治時代になって書いた本で、横浜鎖港談判使節団に加わって渡仏した際の1864年に、見聞したことからルクセンブルクの記載がなされました。
おそらく、日本人として、最も早くルクセンブルクの国のことを知り、記録に残した人物だと思われます。
なお、国立国会図書館デジタルコレクションでの公開範囲で、インターネット公開(保護期間満了)の記載がありましたので、写真掲載します。
ルクセンブルクの掲載があるページ