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10月10日の日曜日も朝からよく晴れて、一日、青空が広がっていました。午後、南部のかって鉄鉱鉱山と製鉄業の町であったDudelangeのイタリア人街に住んでいたイタリア人移民から当時の生活、職場体験を聞く会を取材してきました。
日本人にはあまり興味ないかもしれませんが、ルクセンブルクの繁栄は移民なしには考えられず、大量の移民を受け入れたにも関わらず、大きな社会問題を起こすことなく成功している姿は、日本の地方自治体で多くのブラジル移民やクルド難民を受け入れた町の参考になるかもしれません。
実は、この取材は偶然の連続で実現しました。Dudelangeを訪問したのは、市役所前で開催された文化フェスティバルを見るのが目的でしたが、バンド演奏はあまり興味がなく、出展していたポルトガルやブラジルなどの料理販売スタンドを見た後に、時間があったので、2022年のエッシュ2022の広報スタンドで説明を受けたら、ミラベルジャムの瓶をもらいました。公式開幕は来年2月ですが、すでに当サイトで紹介したように事前イベントが開催されています。
天気が良くぽかぽか陽気だったので、紅葉を楽しむために町の中心から、工場駅のあるイタリア地区を歩いて、工場駅の駅舎を利用した移民ドキュメント・センターでなにか展覧会が開催されていないかどうかのぞいたら、係員から中に入るように言われました。事前登録したかと聞かれ、登録はないが、2階でなにかあるのかと聞いたら、上記会合があると言われ、登録なしでも参加できると言われ、2階に上がりました。早速、司会者が来て、英語で中国かと聞かれ、日本と答えて、次に仏語がわかるかと聞かれました。わかると言ったら、なんと参加者に日本からの人がいるので、ルクセンブルク語ではなく、仏語で話して問題ないかと了解を取ってから、仏語で親切にも開催してくれました。なかにはルクセンブルク語で質問や経験を述べた参加者もいましたが、司会者が仏語ですぐに通訳してくれました。参加者は年配の人がほとんどでしたが、子供連れの若い家族もいました。
まだ、旧アルベドの工場があった時代のイタリア人街でのイタリア人の体験はとても興味深かったです。何点か興味深った体験を挙げてみます。
1.イタリア人街はゲットーであり、ルクセンブルク人とイタリア人が混在して住むことはなかった。
2.学校では、ホワイトカラーの子はクラスの前の席、ブルーカラーの子は前へ
現在のポルトガル移民と同じだとの発言が当プロジェクト説明者からあり。
3.イタリア人の夫は給与を全て使って妻がお金を渡す方で、ルクセンブルク人と結婚したイタリア人女性のように夫はお金を渡さない。
4.イタリア人移民が工場のブルーカラーとして働いていて、イタリア女性は家やカフェなどで働いていた。
5.ポルトガル移民が1970年前に来る以前は、スペインやポーランドからの移民も住んでいた。
現在は28か国の人が住んでいて、イタリア人街は名前だけでなくなっています。
Esch2022でイタリア移民の歴史を写真や居住者の肉声で案内する展覧会を開催するために、参加者からの昔の写真提供並びに当時の生活を語るビデオ撮影の協力を呼び掛けていました。
会合終了後は、コーヒータイムで、ケーキ2種類(内一つは抹茶ケーキ)やジュース、コーヒーが提供されました。まさか、ここで抹茶ケーキが食べられるとは想像できなかったです。
見ず知らずの東洋人に快く、参加を受諾して、仏語での開催に協力してくれた主催者並びに参加者に感謝いたします。

旧イタリア人地区

旧アルベド工場跡

移民ドキュメント・センターのある旧駅舎

センター前にあるイタリア人地区説明版

本会合の案内状