事務局による「人コラム」でルクセンブルクと日本につながりのある現在の人を取り上げていますが、ここでは、日本ではあまり知られていないルクセンブルクにゆかりのある歴史上の人物から、ルクセンブルクの歴史をみてみたいと思います。
第一回目は、ルクセンブルクの歴史上で最も人気がある人物であるヨハン盲目王について紹介します。
ヨハン盲目王で思い出す日本歴史の人物は、関ヶ原の合戦で戦死した同じく盲目の大谷刑部です。石田三成への義理で加勢し戦死したところもヨハン盲目王と重なります。盲目王も英仏百年戦争のクレシーの戦いで、娘婿である仏王太子ジャンからの応援要請に盲目にも関わらず義理で参戦し、壮絶な戦死を遂げています。このクレシーの戦いは、百年戦争の初めの山場で、フランスが敗北して、長く続く戦争の発端になりましたが、武器の面でも重要な意味を持っていて、日本の長篠の戦を思い起こさせます。長篠の戦では、武田騎馬軍団が織田・徳川連合軍の鉄砲隊によって壊滅させられましたが、クレシーの戦いでも英国軍の長弓隊によってそうそうたる貴族出身の仏騎士団が壊滅させられました。日本では騎馬武者が農民出身の足軽鉄砲隊に、西洋では、プリンセス11人を含む千人以上の騎士が農民出身の長弓隊によって、殺戮されています。この戦死者の中に盲目王も含まれています。
時代は異なりますが、両者ともに飛び道具をもった農民に武士や騎士が敗北した点は同じです。日本史と西洋史の比較を研究している者にとっては、興味深い戦いです。
さて、前置きが長くなりましたが、盲目王は、1296年に神聖ローマ帝国ハインリンヒ7世の長男として生まれ、ボヘミア王とルクセンブルク伯を務めましたが、同じく神聖ローマ帝国カール4世になった息子とは異なり、ルクセンブルク家の強大化を恐れる選挙侯によって皇帝には選出されませんでした。親や子と異なり、同じボヘミア王であったにも関わらず、ボヘミアにはほとんど住まず、自身が愛したルクセンブルクに長く住み続け発展に寄与しました。夏の風物詩となった屋外野外遊園地を始めたのも盲目王でした。これが、ルクセンブルクで人気がある理由で、1346年のクレシーの戦いで戦死した後、近くに葬られていましたが、第二次世界大戦後、フランスから遺骨が、ルクセンブルクに運ばれ、いまは、大聖堂地下の大公家墓所近くのお墓に眠っています。
なお、フランス語名はジャンです。1998年には展覧会が開催されています。
戦死の場面を描いた絵画
大聖堂地下にあるお墓