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ナチスによる最初のユダヤ人強制移送から80年

12月16日は、久しぶりに午後よく晴れて、日なたでは12度とコートがいらないほどの天気でした。天気がよかったので、ルクセンブルク市内中心部のユダヤ人犠牲者記念碑、2カ所のかってのシナゴーク跡を見学したのち、Villa Pauryで開催されている小さな展覧会「Das Ghetto von Litzmannstadt ― an der Schwelle zum Tode(リッツマンシュタット・ゲットー ‐ 死の限界に)」を見学してきました。
建物はナチス占領時代にゲシュタポ本部が置かれていた場所で、国の指定建造物に指定されています。普段入ることができない建物内を見学できるいい機会でもありました。展覧会は、1941年10月17日にルクセンブルク中央駅から初めて323人のユダヤ人が、トリアで加わった190人と共にポーランドのリッツマンシュタット・ゲットーに強制移送されてから80年を経過したのを記念して開催されました。展示パネルは全て独語でしたが、仏語の解説書が無料でもらえました。また、エッシュのレジスタンス博物館で開催されたカタログ(独語英語)、独語カタログ、関係書籍も無料で配布されていました。豊かな国のせいか、無料でもらえるカタログや書籍が数多くの機会にありした。
ルクセンブルクのユダヤ人人口は、1867年565人、1895年1054人、1922年1358人、1930年2242人であったのが、1933年ナチスが政権獲得後、ドイツやオーストリアから逃げて来たユダヤ人で、3144人と900人余りも急増し、1940年には3902人まで増加していました。
1941年5月10日にナチスに占領されると、多くのルクセンブルク人同様ユダヤ人も3千人以上が1941年夏までに南西フランス経由でポルトガルなど外国に逃げていました。
ルクセンブルクに残った800人超のユダヤ人の多くは老人、病人や小さな子のいる家族でした。一部は戦後まで匿われていましたが、ほとんどは強制収容所に送られました。さらに、フランスやベルギーに逃げたユダヤ人のうち少なくとも565人がゲシュタポに捕まり、同じく強制収容所に送られていました。初の列車でルクセンブルクから移送されたユダヤ人の人名一覧と年齢を見てみると1才から72才で、1番列車で送られた513人のうち、生き残ったのはわずか13人でした。展覧会では、強制収容所での生活も写真入りで紹介されていました。
最終的に4千人余りのユダヤ人のうち約1300人が犠牲になりました、シナゴークも占領時に破壊されています。