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日本軍に処刑された元ルクセンブルク兵

太平洋戦争終末期の1945年3月9日ラオスのターケーク(Thakhek)で、日本占領に抵抗した11人の民間人や軍人が処刑されました。11人の処刑者の1人は、1898年3月12日にルクセンブルク人家庭で生まれたEdmond Célestin Grethenでした。
1914年に第一次世界大戦が始まり、当時、中立国であったルクセンブルクは、ドイツ軍によって開始直後に無血占領されてしまいました。1917年4月26日、19才になったEdmondは、多くのルクセンブルクの若者と同じように、祖国を救うために、フランスの外人部隊に志願しました。ドイツ軍の捕虜となっても家族に迷惑がかからないように名前を、Edmond Célestin Mourotと変えて、従軍しました。当時、フランスでは1914年8月5日法で、外人部隊に志願した兵士にフランス国籍を与えることができるようになり、Edmondを含む外人部隊に志願した多くのルクセンブルク人もフランス国籍を取得していました。
大戦終了後も、多くの志願した元ルクセンブルク兵士同様、外人部隊に残り、仏領北アフリカや仏領インドシナに派遣されました。Edmondは、インドシナに残り、日本軍による1945年3月のラオス占領に対して、レジスタンス活動を行い、逮捕処刑されました。
フランス人のレジスタンスとして、処刑されたことで、フランスは彼をレジスタンスの英雄として扱い、1947年に受勲され、1952年にはパリ近郊の英雄墓地Mont-Valérienに葬られました。
なお、フランスの外人部隊にルクセンブルク人兵士が何人いたかは正確にわかっていません。8千人とも、3千人とも言われていますが、リスト上は600人とのことです。Edmondのように多くのルクセンブルク人がフランス国籍を取得して、フランス人になったため、少なくとも千人以上はいたと思われます。
ルクセンブルク人はフランスが好きで、第一次世界大戦後にドイツ関税同盟から脱退し、フランスと関税同盟を結ぼうとしましたが、断られ、ベルギーと関税同盟を締結しています。

彼を知ったのは、偶然の産物で、たまたまキルヒベルク地区にあるジャン大公記念現代美術館の近代的な建物の裏手にある要塞博物館で開催中の特別展「外人部隊兵士展」でした。ルクセンブルク人でフランス外人部隊に志願した兵士の展覧会で、英文と仏文の説明がありましたが、全部を読むと時間がかかるので、展示品やビデオを主に見て、展示解説はあまり読まなかったのですが、たまたま読んだ数少ない展示説明で、Japanを目にして、彼が日本軍に処刑されたことを知り、家に戻ってから、彼のことを調べてみました。ルクセンブルクでは、先週以来、首相の論文盗作疑惑が話題になっていますが、ググるだけで、簡単に多くの情報が得られる便利な世の中になりました。論文もコピー・ペーストだけで作成する学生が出ても不思議ではないです。

ところで、私は、日本を旅行していた時に会った人の中で、訪問先として知覧を推薦する人に何人も会いました。かっての神風特攻隊の基地跡で、有名な特攻兵士の遺書を展示している記念館があるところで、一度、武家屋敷跡と共に見学に行きました。一方、欧州では、かって、日本からルクセンブルクを訪れた人の何人かに対し、第一次世界大戦の激戦地ヴェルダンを推薦し、案内したことがあります。車で1時間半ほどの距離で、要塞跡、墓地、博物館、塹壕跡などを見学して日帰りで行けます。圧巻は、13万ともいわれる白い十字架が並ぶ記念墓地です。仏独両軍合わせて、70万人余りが死傷しました。戦争のむなしさを無言で伝えています。かって、知り合いの知り合いである父親に、ヴェルダンの森の中に残る未公開の要塞跡を案内してもらったことがあります。彼の両親がナチスによって殺害されたのちに、ヴェルダンの森に隠れて、レジスタンスを行っていた人で、訪問した35年前当時も、第一次世界大戦時の薬きょうが、森の中に数多く埋もれていると言ってました。ルクセンブルクは、独仏国境の戦略地点近くに位置しているため、両大戦の戦線跡が近郊に数多く残されています。